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<囲碁の会>

サークル設立10周年を記念して、大先輩の松村様に特別に寄稿をして頂きました。(武林)


囲碁サークル10周年特別寄稿

「私と囲碁」
松村良宏(昭和30年商学部卒、囲碁部部長)

もし、私に囲碁の趣味がなかったら、余生が持たないのではないかとする思い、
趣味とは有り難いものである。
そもそも、 碁との出会いは戦時下、 「東京武蔵小山」から「兵庫県豊岡」に疎開、ここでスタートした。

6人の仲間に入り、高校生活3年間でほぼ初段位になった。
そして、昭和28年の初め頃だっただろうか、「阪急西宮北口駅」近くの線路脇に
古びた木造の二階建て、その二階十四畳ぐらいのスペースに碁会所があった。
そこは碁盤八面、将棋盤四面の小さな碁会所だったが、学校が近かった事もあり、碁キチが一人一人と集まってきた。
一年先輩の津山寿一郎氏(故人)がトップ、次いで加藤、竹内 と小生。
その後、阪本、弓場(故人)米谷と戦力アップし、増田、前川(故人)細田、由利(現在、東京講師)と続いた。
当時、将棋は神田鎮夫先生(当時六段、故人)が指導されていたが、将棋はそっちのけ、碁への情熱に燃え、毎日、遅くまで切磋琢磨したものである。
神田先生は当時、関西を代表しておられた神田辰之助八段の御曹司と聞いていたが、体調をくずし、手合いを控えておられたのであろうか、私達に親身になって、ご協力いただいた事、いまだに記憶に新しい。

この時期、昭和29年6月、関西学生リーグ優勝までの一年間、学業を忘れ、碁で暮れ、麻雀で明ける日も多かった。終電に間に合わず、「西宮北口」のベンチで何度もお世話になった事、自宅が次の「武庫之荘」だったので、真っ暗な夜道を歩き、田んぼに何度も足を滑らせ、そのまま寝床に入ったのも若き故の事、懐かしい思い出だ。
この頃、「阪急園田駅」(西宮北口より三つめ)の近くに、細川千仭七段の道場があった。院生との練習試合も叶い、めきめき腕を上げた時でもあった。
現在の石井邦生九段が 内弟子として修業しておられ、我々も対局させて頂いた筈である。

こんな時代に、関西学院文化総部「囲碁部」は発足した。
部は出来たが 部費は無く、当然遠征も全部自腹。小生、芦屋の社長宅に
碁のアルバイトを持ち、それで多少 凌げたのだと思う。
碁を教えながら、そこのお嬢さんに お酌をしてもらった事は忘れがたい
思い出の一つである。

昭和29年6月13日、第7回関西学生リーグ戦(8校参加)の優勝戦が
本因坊算砂の墓所、京都寂光院(小生、53年後の平成19年6月、再度訪問。算砂のエピソードとして今でも伝えられているが、本能寺の変の前日の対局で、
三却の形ができた。)で行われ、京大を破って、関学が初優勝した。
(当時の8校は関学、京大、関大、竜大、同大、立命、阪大、市立大)

次いで同月26日、東西両学生囲碁連盟共催、毎日新聞社及び日本棋院後援の
第4回大学囲碁東西対抗戦が高輪の日本棋院で行われたが、関東連盟の覇者、中央大学に3―2と接戦したが敗れた。

次いで、6月27日、日本棋院で第四回東西選抜対抗戦は両地区10名の精鋭で戦ったが、、8−2を持って、関東側が圧勝した。
この時の 東の主将が 村上文祥(早大)、西の主将は我が関学の津山寿一郎氏が勤めた。ちなみに、私もメンバーに選ばれたが、宇都宮竜一氏(中央大)に敗退した。

次いで、この年、12月19日、第五回東西対抗戦同じく、選抜10名で行われたが、7−3で関東側が圧倒的な強味を発揮し、さすが、本因坊のお膝元だけの事はあった。この時も東の主将は 村上文祥氏であり、彼の3期連続全勝は素晴らしい。この時も、関学からは阪本清士氏と私が参加したが、残念ながら、敗退。小生の相手は第四回東西対抗戦に負けた河合哲之氏(現在日本棋院六段)であった。
この折、関西学生の総帥 藤田悟郎先生(日本棋院五段)が病を押して観戦にお見えになり、試合終了後の茶話会の席上「今季は7−3で再度ならず三度までも関東に勝ちを譲ったが、振り返ってみると、ひとつずつではあるが、着実に白星を増やしている。この分だと来秋にはタイに持ち込み、二年先には関西が圧勝する事になる。関西側の諸君、ひとつ大いに頑張って頂きたい。」とコメントを頂いた。
翌年卒業を迎え、その後の事は詳しく知る由もないが、昭和31年関西学生リーグでは京大に勝ち、東西対抗では東大に負け、全国制覇は出来なかったと伺っている。

卒業後、東京勤務になった事もあり、碁仲間とも約30年の長いご無沙汰が続いたが、その間一度だけ第一回OBの会合を持った。
昭和56年3月28日、栃木県鬼怒川C・Cでゴルフ、その夜 川治温泉
柏屋ホテルに宿泊、夜を徹して碁三昧であった。(麻雀も多少は)
(阪本、浅川、北川、峯、榊、中田、橋本、今木、瀬野尾、小生の10名)
次回は10月頃、大阪でとの予定だったが、小生は行けなかった。

平成8年に40年間のサラリーマン生活をやっと終え、阪本清士氏に声をかけ、関西学生囲碁連盟OB会に参加させて頂き、再起を果たしたのは平成8年9月8日の関西学生第七回OB戦14校(各行11名)154名がいっせいにスタート、1日3回対局。関学Aチームは準優勝であった。私が参加させて頂いたBチームは10校中8位であった。300名近い人が一斉にスタートするさまは壮観であった。ただ私も当時、タバコを吸っていたが、喫煙場所が小さく、煙がモウモウであった。(公文教育会館大会場)
その後、平成9年、10年と参加したが、前日、新旧囲碁部員との自由対局、終了後の飲み会の方が楽しい思い出が多かった。
平成11年7月3日、人形町ホテル吉晁にて、東西対抗交流戦が行われ、これが公式戦最後となった。

この年8月東京囲碁部を知り、三越そばの東京支部に入会、室井、由利君と   出会う。その後、パレスビルに移動、平成15年1月16日の再入会、
10月より大盤による指導碁を開始、平成19年9月からはパレスビルより   サピアタワーに移動、その後、平成21年体調をくずし、由利君にバトンタッチ。

平成23年、今年は、いよいよ80歳の大台に入った。
最後になりましたが、碁がとりもつ縁で、会社勤務中に知りあった大阪市立大
(山岳部)卒の医学博士 廣谷光一郎氏と平成10年ネパール、11年パキスタン、12年中国ウイグル自治区、14年ブータン、16年中国四川省九寒溝黄龍とシルクロードを中心とした大旅行にお供させて頂いた事は碁に感謝、感謝である。更にその上、楽しい事が待っていた。どこの国に行くのも足は飛行機である。長時間なので必ず、碁を楽しむ。すると夢中になり、知らぬ間に目的地に到着する。
スチュワーデスが通過すると必ず足を止めて「ジット」見下ろす。すると意地悪をして、碁盤をひっくり返すゼスチャーをする。国によってゼスチャーは違うが、非常に楽しい(悪い趣味)。一度本当に全部落として、拾うのにブータン行の中型機内中、大騒ぎになった事もあった。事後、すっかり仲良しになり、サービス満点だった。
イギリス人に教えろと、うるさくつきまとわれたのも疲れたが、楽しい思い出。

「私の好きな言葉」
・「碁」とは考えるゲームではなく、考え方のゲーム
・「碁」とはダメを打たないゲーム、却を覚えるゲーム
・時間つぶしでない様な碁を打つ練習、負けるのはやむを得ない、しかし、
 負ける事に慣れるな。


若々しい松村先輩(H23.5.19)囲碁サークルの活動で対局中(真剣な表情で)
対局中の松村先輩の後に武林幹事長


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