"浪花のモーツアルト"と呼ばれ、数多くの名曲を世に送り出してきたキダさん。その、音楽の原点は関学時代にあるという。中学部時代の思い出をはじめ、音楽業界への道が開花した高等部時代、バンド仲間でもあった俳優・藤岡琢也さんとのエピソードなど……普段語られることのないキダさんの素顔に迫りました。
【心にしみる中学部での思い出】
中学部から関学生活を送ったキダさん。戦時下ならではのエピソードや心の奥にしまい込んでいた友人関係にまつわる苦い思い出を語ってくださいました。
キダさん:関学中学部を選んだのは、両親の希望でした。父親の職業が捜査一課の刑事でしたので……その頃の刑事というと見識が高かったということもあって、家から通える範囲で一番上品な学校が関学だったんです。五男一女の末っ子として宝塚市に生まれた私ですが、今と同じで子供の頃から物事を斜に見ていましたね、にくたらしい子供だったと思いますよ(笑)。中学部に入学した頃は既に世は戦時下、学校には配属将校による厳しい軍事訓練もあって物々しい雰囲気でした。外国人によって建てられたクリスチャンの学校なのに、英語の先生が最も肩身の狭い思いをしていましたよ。私を可愛がってくださった担任の川並先生も、英語の先生でした。
川並先生や当時のクラスメートとの思い出で今でも残念に思う出来事があります。それは、中学1年生の朝礼の時間でのことです。中学部の朝礼とうのは大学のチャペルの時間とは異なり、大きな講堂に全学生が集まって校長先生が聖書の一部を朗読し、教頭先生が祈りを捧げるというものでした。ある日の朝礼の時間に、大きな蜂が飛んできました。蜂は本当に大きかったので、私は「蜂だぁー!」と叫んだんですね、そうしたらクラスメートの何人かがつられて叫んで、朝礼の場は騒然となりました。神聖な礼拝の時間に騒ぎを起こしたということで、私を含め主犯格の5人ほどが職員室でこってりと絞られました。めったに怒ることのない川並先生が憤然としていたので職員室の注目の的となったわけです。4人が次々に折檻され、5人目に私の番になりました。川並先生が悲しそうに「キダ君、君までもかい」と仰ると、私は「蜂が飛んできて皆が騒いだので僕は注意をしました」と答えてしまったんです。けっして言い訳を必至で考えたのではなく、咄嗟に口をついてしまった言葉でした。私は自分の嘘が父親の職業を辱めたという思いと、クラスメートに対する罪悪感で胸が詰まる思いでしたね。結局、その事件以来、中学部時代では友人らしい友人はできませんでした。
ただ、3年生になることには戦渦が広がり、我々学生も学徒動員として働きました。宝塚のNTN(東洋スペアリング)で不良品ばかりを作っていましたよ(笑)。そこでは、女学校4校に対して男子校が関学1校という環境。勉強はしなくていい、女学生には囲まれる、甲東園の坂道を上らなくてもいいなど(笑)、良いことずくめでしたね。子供でも夜勤をさせられたので、夜遅くまで働くということが大人扱いされているようで嬉しくもありました。西宮の空襲もハッキリと覚えていますが直接被害に遭ったわけではないので、戦争の怖さを本当の意味で知らないまま敗戦を迎えました。
【ハンドボールとアコーディオンに明け暮れた高校時代】
戦争が終結し訪れたのは学生のバンドブーム。仲間とタンゴバンドを結成したキダさんは、毎夜催されるダンスパーティーにひっぱりだこだったとか。現在の音楽活動の原点となる高校時代とは?
キダさん:中学部では例の苦い出来事で友人との思い出がありませんでしたが、高等部に進むと新たな生徒が入学してくるので、蜂の一件は知りませんから仲間との交流も生まれました。戦争が終わって復学し、高校2年生に編入という形になりました。スポーツとはあまり縁のない私でしたが、高校時分にはハンドボール部を結成しました。当時、天王寺の高校がハンドボールの名門でそれに対抗したつもりだったのですが、我々が卒業する頃にはつぶれてしまい後輩には受け継がれませんでしたね(笑)。ハンドボールで汗を流しながら、もう一方ではダンゴバンドに熱中していました。ここで一緒だったのが俳優の藤岡琢也君ですよ。私がアコーディオン、彼がバイオリン。そのほかピアノやクラリネットなど5〜6人でバンドを結成していました。関西ではビッグネームだったバイオリンの名手・中野圭太さんのご自宅で、レッスンしてもらうチャンスもあって、どんどん音楽にのめり込んでいきましたね。
私が高校生だった頃、関学の大学生は毎晩自宅でダンスパーティーを催しているようなご時世でした。自宅といっても、進駐軍に接収されるほどの大きな邸宅に住んでいている人が多かったので、どの家にもダンスができるホールがあったんです。何人もの人が代わる代わるパーティーを催すので、バンドの連中が足りなくて高校生の我々も毎日駆り出されました。3曲しかレパートリーがなくても、重宝されたものです(笑)。曲はカプリトウ、ラ・クンパルシータ、フェリシャでした。フェリシャはタンドの名曲で、バイオリンのソロパートが多い曲。確か藤岡君が選んだ曲じゃなかったかなぁ、彼は当時から目立ちたがり屋でしたから(笑)。少ないレパートリーでも、みんな楽しそうに踊ってくれましたよ。好きなことをしてお金が貰えるわけですから、やみつきになりましたね。それがきっかけでこの世界に入ったようなものです。でも、ハンドボールとダンドに明け暮れた日々で、勉学は当然のごとく疎かに……。高等部から大学へ入学するのに本来は試験の必要がないはずなのに、何故か私の時には試験があって見事に落第しました。父親の「大学だけは出なさい」という言葉で浪人をして、一年後に大学へ進みました。
【音楽で生きてゆく】
浪人時代でさえも勉学より音楽活動で忙しかったキダさん。アコーディオンからピアノに楽器を転向し、本格的にプロとして活動するようになったいきさつを伺いました。
キダさん:タンゴバンドでアコーデオィンを担当していたのは、結核で亡くなった兄の形見に持っていたからです。当時はアコーディオンなんて、まず普通の家庭にはない時代ですからね。ただし、我が家にあったのはボタンが8個しかない子供のオモチャ的なモノ、プロが使うものはボタンが120個もあるので音域がまったく違いました。実は高校から浪人時代にかけてキャバレーでもバンド演奏をしていたのですが、ボタン8個のアコーディオンでは満足な演奏ができないため神戸の国際楽器からアコーディオンを借りていました。プロが使うアコーディオンは当時の価格で40万円しましたから、とうてい買える値段ではなかった。でも、レンタルする楽器では、なかなか腕が上達しないでしょう、それでトランペットなど他の楽器も考えたんですがうまくゆかず、鍵盤つながりのピアノへと転向しました。もちろんピアノも非常に高価なものでしたが、関学には講堂がたくさんありましたから、練習するに困らなかったんですよ(笑)。大学時代の思い出といっても、その頃は向学心ゼロでしたから、音楽の話しか出てきませんね。いい年になってから「しもたなぁ」と思います。
作曲を手掛けるようになったのはピアノに転向してからでしょうね。20代の前半で、今でも大阪にありますがその頃とても有名だったキャバレー「ユニバース」で演奏をするようになっていました。大阪で1、2の実力バンド「キャスバオーケストラ」へ入団したんですよ、その楽団には約10年もの長い間籍を置きましたね。私の中には、ある一定レベルのオーケストラに入ったらそこにしばらく定着するべきだという保守的な考え方もあるんです。私以上に性格のひねたバンドマスターがおりましたが(笑)、そんな訳で10年もいたんですね。オーケストラでの担当はもちろんピアノ、この楽器はほかのどれよりも音域が広いため、ピアノをやっているとオーケストラの全体の流れが把握できるんです。そうなってくると、「編曲」という作業ができるようになる、「編曲」ができれば「作曲」も簡単ですからね。そのうちオーケストラのなかでは演奏者ではなく、作曲専門となっていきました。それから今日に繋がるというわけです。
【"悪友"藤岡琢也さんとの再会】
高校を卒業してからほとんど交流がなかった俳優・藤岡琢也さんとふとしたことから再び交友関係が復活。そのきっかけとは?
キダさん:高校の時にタンゴバンドを一緒に組んでいた藤岡君ですが、卒業後はほとんど連絡をとることもなかった。私もキャスバオーケストラでの活動をはじめ、テレビやラジオに出演するようになり学制時代の仲間との交友がほとんどありませんでしたから。俳優に同姓同名の人がいることは知っていましたが、まさか関学にいた彼と同一人物だとは思わなかったんですよ(笑)。彼も病気をしたりしてずいぶん体型が変わっていたので、顔の印象が違ったんですよ。30歳近くなった頃でしょうか、関西局のモーニングショーかなんかの番組のご対面コーナーへの出演依頼があったんです。その相手が藤岡君だったんですよ。久しぶりに再会して、それから交流が復活したんです。彼のために、「悪友の唄」や「人生わらべうた」などといった曲もかきましたよ。「悪友の唄」は今でも彼の持ち歌だときいています。
【後輩達へ】
70歳を越えた今もなお、現役で活躍するキダさんからOBの後輩達へ向けてメッセージをいただきました。
キダさん:孔子の論語のなかでもっとも知られている年齢訓によると、「40歳にして時分の方向に確信を持ち、50歳で展から与えられた使命を自覚し、60歳で誰の意見にも耳を傾けられるようになり、70歳になって時分を押さえる努力をしないでも調和が保てるようになった」とありますよね。それを考えると、私はまだまだ勉強が足り無いなぁと思います。今でも本を読むとわからないことばかりで、始終関心することだらけですよ。先ほども申しましたが、大学生の時には向学心ゼロでしたからね、学生の頃よりもOBになってからのほうが好きな勉強だけをすればいいのだから熱心かもしれないね。私の性格上、好きなことだけならずっと続けられるけど、興味のないことはどうもね(笑)。昔から国語は好きだったので、夏目漱石や平家物語など、当時の学生等が読むものは一通り網羅していたね。やっぱり、できるだけ本は読んだ方がいい。
もう一つ、関学の後輩に伝えたいことは「空の翼」という素晴らしい校歌を、ちゃんと歌えるようにしてほしいということです。「〜いざいざいざ、上ヶ原」という箇所の「う」「え」「が」の発音が皆さん間違っているんですね。この3文字は全て音程が違うのですが、混同している人が多い。ぜひ、もう一度きちんと覚えてください。
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