HOME.CONTACT.PRIVACY POLICY.
K.G-TOKYO.COM Registry Member
入会はこちら LOGIN
What's K.G-TOKYO.COM
K.G PEOPLE
社会で活躍する同窓生をCLOSE UP 輝くKG同窓生のインタビューとメッセージを掲載します。
KG PEOPLE
012 大江 千里さん
ミュージシャン

backnumber

関学には人生の“ドア”をあける鍵があった




在学中からプロのミュージシャンとして活躍していた大江千里さん。
芸能活動のプロセスは、みなさんご存じの通りですが、あまり語られることのなかった大江さんの学生生活とは?何を考え、どう生きてきたか……
心に語りかけるような独特の大江調フレーズでお話いただいた。

【関学に一目惚れ】
3歳からピアノをはじめ、中学の頃から既に作詞作曲をはじめていた大江さん。高校を卒業するときに、すぐに音楽の道を進まずに大学進学を決める。だが現役受験に失敗。1年間の浪人生活を経て大江さんがトライしたのは、関学オンリーで4学部を受験。それほど関学に入学したいと思った理由とは?

大江さん:音楽もやるけど、大学も入る。いろんな“ドア”をオープンにしてやるんだ――高校時代はそんな力が漲っていましたね。と聞くとカッコイイようですが、受験の前日もライブへピアノを弾きに行っていたので、案の定不合格。それでも、もう一度大学という“ドア”を開けるため、1年だけ浪人しようと決めたんです。天王寺の夕陽丘予備校に入り、7月頃まではまじめに行っていました。が、そのうちまた、むずむずと音楽の虫が騒ぎ出し予備校から足が遠のいていきました。エネルギーのぶつけどころが全てピアノに向かっていたんですね。そうこうしているうちに12月に入り、さすがに予備校の友人が心配して電話してきてくれたんです。そこで、「フッ」と目が覚め自分を俯瞰で見ることができたんです、「こんなことをしている場合じゃない、勉強しなければ」と。

とはいえ、時は既に12月。実はその時点では同志社を受けようと思っていました。
「シンガーソングライター、同志社、竹内まりあ」という絵が浮かび、単純にカッコイイなぁ……って。でも、一本に絞り込むのは危険すぎると思って、関学が選択肢の一つに浮かんだんです。近場ということもあるので、学校見学でもしておこうと呑気に出かけていきました。梅田から阪急・神戸線に乗り西宮北口駅で今津線に乗り換えました。電車を乗り換えるごとに景色が美しくなり、甲東園の駅に降り立ったときには、本当にのんびりとしたいい風が吹いていたんです。そこからバスに乗らず、歩いて校舎を目指しました。ちょうどテスト期間中だったと思うのですが、途中の道々ですれ違う在校生たちの、賑やかではじけるような笑い声やイキイキとした笑顔が眩しくて……浪人生の嫉妬もありましたが(笑)、みんなキャンパスライフを謳歌しているように見えました。そんな様子を羨ましくも眺めながらふと道を曲がると、いきなり並木道に場面転換、そしてその先にマッチ棒ほどの時計台が鮮烈に目に飛び込んできました。キャンパスまでのその道に流れる音と映像がその時僕の中にインプットされたんです、平たく言えばビジュアルに一目惚れしたんですが(笑)。門に足を踏み入れると、そこは日本じゃないような絵に描いたようなキャンパスライフが広がっていました。その光景を見て「ここしかない!」と思いました。帰るときには、もう誰も目に入らず、一刻も早く家に帰って勉強したい衝動に駆られました。その後、本屋さんで関学の全学部の赤本を購入。お店の人に「お兄さん、来年のはまだ出てないよ」と言われ、「いえ、来月のものです」といってずいぶん驚かれました(笑)。

【友よ】
大学時代に得た一番の宝物は「友達」だと語る大江さん。その思いは、最近になって曲作りにも現れているとか。今でも夢に見るという入試の時のエピソードや軽音楽部での活動、デビューのきっかけなどを伺った。

大江さん:関学一本に絞って受験勉強を再スタート。第一希望は文学部、でも一本では不安なので社会学部、経済学部、商学部と合計4学部を受けました。経済学部の試験の際、英語の問題が自分の用意してきた傾向と全く違うことに落ち込み、もう諦めて途中で帰ろうとしたんです。教室を後にして門のところまで来たときに、友達に呼び止められたんです。「諦めないで最後までやれよ」という言葉でしぶしぶ戻って、本当によかったと思いました(笑)。校門で友人に会わなかったら今の僕はなかったかもしれませんね。結果は、第一希望の文学部のみ落ちて、残り3学部は合格。合格通知が届いたときには、受かっているとわかっていても、その感動に浸りたくてわざわざ学校まで見に行きましたね。改めて自分の目で番号を確認し、テキストを食べる勢いで必至にラストスパートかけてきたことがフラッシュバックし、すぅーっと涙が頬をつたいました……地元のテレビ局の「今日のニュース」に撮られていることをちゃんと意識していましたけど(笑)。合格を確認したら、その足で真っ直ぐ軽音楽部のドアを叩きました。

いざ入学すると、やはり学校の勉強は二の次に。僕は自称 関学の“不”経済学部・軽音楽科に在籍していました(笑)。関学の軽音楽部は非常に厳しく、週に一度の集会に1分でも遅刻をすることは許されませんでした。遅刻3回で退部になるほどでしたからね。当時はフュージョンブームで、クラブではジャズのバンドがメインでした。でも僕がずっとやってきたのはポップス。70年代はヤマハのポップコーンという作詞作曲コンテストが盛んで、弾き語りをしながらシンガーソングライターを目指していました。いったん浪人時代にとぎれた弾き語りの世界が、大学に入ってまた再燃したんです。クラブはテクニックのブラッシュアップのために半ば所属し、学外で積極的にライブをしていました。

’81年、大学2年生の頃、CBSソニーオーディションで最優秀アーティスト賞を受賞しました。オーディションに受かったものの、すぐにデビューには結びつきませんでした。しばらくは、いわゆる育成期間のような状態が続きました。デビューのきっかけをつかめずにいたとき、僕を支えてくれたのは友人達でした。ライブの度に大勢の友人がかけつけてくれ、時には仕込みで若葉会の女の子に来てもらっているうちに、「神戸ギャルが夢中になるライブハウスがあるらしい」という噂が広まって(笑)。4年の5月にデビューを果たすことが出来ました。僕は詞が弱かったのでメロディーを先行して作り、イメージを湧かせるために映画を見てはそこからインスパイアされる思いを詞に込めていました。例えば、『白いドレスの女』で主演キャスリーン・ターナーのセリフがすごく印象的でした。絵の見える詞が書きたい――そう思いました。その時のセリフは在学中にリリースした「ふたつの宿題」のフレーズに拝借(笑)。デビューが決まってからも、周りの友人達は意外に冷静でしたね。変わらずに僕を支えてくれました。学校へ行くのは、クラブへ顔を出す時と、テスト前、キリスト教学の時くらいでしたら……仕事が忙しくなってからは友人が協力してノートをとってくれましたし、当時のゼミの教授で安保則夫先生などは、僕のスケジュールに合わせてゼミ合宿の日取りをセッティングしてくれました。表だってというよりみんな影で支えてくれていました。そんな友人達の助けもあって、大学は4年で卒業しました。その頃、よく雑誌のインタビューで話していたのは「ロックはドロップアウト、ポップスは4年で卒業です」って(笑)。

■できることならもう一度

大江さん:今年デビュー20周年を迎えることができたのも関学の4年間があったからだ、と思います。ここ5年くらい久しぶりに友達が集まるという設定の歌を作るようになりました。去年発売したアルバム「Untitled LoveSongs」の中に「ボーイズ・サミット」という曲があります。〜(中略)芝生の上で寝ころびながら 聴かせてくれたスティーリーダンも うまくやれずに終わった ライブの方を覚えている 得意のフレーズは 眼と眼を見なくてもわかる 離れてた時間の隙間 埋まっていくよ 胸の奥で光る宝物 ほら見えるから 二度とこない この瞬間に ボーイズ・サミット〜これはまさに関学の軽音楽部での思い出をイメージした曲です。

今、こうして大学時代のことを語れるようになったのは、気持ちにスペースができたから……。それまではただガムシャラに走ってきましたね。中央芝生の上で上ヶ原の牛となって日焼けしていたときもガムシャラでしたが(笑)。その頃はちっとも心に余裕がなかったけれど、そうやって夢中にひたすら進み続ける日々があったから、今があるんでしょうね。仲間同士で集まると、もう一度大学に行くとしたらやっぱり関学だなぁと話しますよ。実は、未だに夢を見ることがあるんです。受験勉強をしていてちっとも英単語が頭に入らないこと、経済学部の地下にあったポプラという喫茶店でレモンスカッシュを飲みながらノートのコピーの整理をしていたこと……懐かしいですね。あの大学に4年しかいられなかったことが悔やまれる、関学だったら20年くらい行きたいくらい(笑)

【モラトリアムな大学時代でいいじゃないか】
プロのミュージシャンと学生という二枚看板を背負い、端からは、順風満帆な日々を
送っていたかのように見えた。だが、青年期の未熟な心の中は苦しみが渦巻いていた
という。そんな大江さんから、後輩へ向けてメッセージをいただいた。

大江さん:この数十分、僕は楽しいことや嬉しいことばかり話してきましたが、でも実際はそうじゃないことの方が多かった。教科書を小脇に抱えてキャンパスを闊歩している時にも、心の中は曲が生まれいずる悩みに溢れ閉塞状態でした。まだ知らない事ばかりで自分の力では太刀打ちできないものが多すぎて……。自分を語れるものは何か、自分の居場所はどこなんだと、常にそんなことを思いながら友達と朝まで飲んだり、恋愛したり。20年経って、こんなに楽しく大学時代の夢を見られる時がくることを、当時の自分に教えてあげたいくらいです。こだわりのかたまりで、常に逃げ場がないくらい自分を追い込んでガチガチになっていた、今から思うと「そんなにこだわらなくても、太い幹の部分だけ大切にすればいいんじゃない?」というほど。

僕が後輩たちに行ってあげられることは、「そのまま突き進めばいいよ!」ということですね。苦しいときにはとことんやって、いっぱい悩んでその度に“ドア”をいっぱい開けて。若いうちから既に自分の進むべき道を決めている人もいると思うけど、そうじゃない人の方が圧倒的に多くてモラトリアムで漂っている。その状態は、どんな位置にでも三脚を立てるか自分で決めることができ、ものすごいチャンスの中に浮かんでいるのだと僕は思います。自分の目で見えるもの、聞こえるものを大切にして、自分の手でどんどんドアのぶを握って開けていって下さい。

【新たなドアを開けて】
今年は、大江さんにとってデビューから20周年という意義深い年にあたります。20年という年月を、現在どのように感じているのか。さらに今年の活動についても伺いました。

大江さん:20年というのは、10年や15年とはまた違いますね。人生を螺旋状に例える
と、同じ経路を違う高さで見ているようです。気が付くと似たような風景の所を走っ
ています。でも、対人関係や仕事の成り立ちなども見えてくるようになって、同じ景
色を走っていてもそれがとても新鮮に感じられますね。

僕がデビューした日は5月21日だったのですが、今年の5月21日に初のピアノソロアルバム「12ヶ月」というアルバムを発売します。ピアノの音だけで12ヶ月の季節の移ろいを表現する音のカレンダーのようなアルバムです。自分の側でずっと対話してきたピアノは、曲作りの原点です。今まではずっと音を足し算する作り方をしてきましたが、ここ5年ほど引き算するようになりました。区切りの年に自分の心の“ドア”を開けて、僕自身が音とたわむれ、音の原点を確認しようと思って……詞がないぶん何か別のものが語りかけてくれるような気がして。今まで20年、ずっとポップスをやってきて、たぶんこれからもポップスを続けると思います。弾いている自分も聴いている人もみんなが癒される、そんなポップスでありたいと思います。6月には神戸のいたみホールでもコンサートを行うので、ぜひ聴いてください

【PROFILE】
大江 千里(おおえ せんり)
1960年大阪生まれ。’81年関学在学中にCBSソニーオーディション最優秀アーティスト賞を受賞。’83年EPIC/SONY RECORDSより大村憲司プロデュースのアルバム「WAKU WAKU」、シングル「ワラビーぬぎすてて」でデビュー。’84年関西学院大学経済学部卒業。その後多数のアルバムを発売、ほかのアーティストへの楽曲提供なども行う。音楽だけに留まらず、映画やドラマ、本の執筆、テレビ番組の司会なども務め、2003年、デビューから20周年を迎える。5月21日初のピアノソロアルバム「12ヶ月」をリリース。デビュー20周年記念ツアーでは、6月1日にいたみホール(兵
庫県)、6月15日にコスモシアター(大阪府貝塚市)、6月23日にサントリーホール(東京)ほか、全国を巡る予定。その他、7月、8月にも多数イベント開催決定。

http://homepage3.nifty.com/senri/
backnumber
KG HOT NEWS.
circle
copains
KG LINK.