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社会で活躍する同窓生をCLOSE UP 輝くKG同窓生のインタビューとメッセージを掲載します。
KG PEOPLE 003 杉本 清氏  
 

 
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杉本 清氏 "流れに身を任せつつも、
ねばり強くチャンスを待つ"
杉本流人生術の全ては、関学から始まった。



今回は、競馬やゴルフの実況をはじめバラエティー番組まで、幅広いジャンルでご活躍されているアナウンサー杉本清氏。KG同窓生へ向けての"名フレーズ"をご覧ください。

【放送研究会との運命的な出会い】
放送業界を目指す学生の憧れでもある関学放送研究会(現KGB総部放送局)。その研究会との運命的な出会いによって、杉本氏の人生は大きく変わっていった。

杉本氏: ボクは大和高田の旧家で生まれ育ち、高校を卒業するまでは大和高田を出た ことがなく、冒険といったらおかしいけれどそういったこともさせてもらえませんで した。性格も内向的で引っ込み思案。近所の幼馴染みと外で元気に遊び回るよりは、 どちらかというと部屋に一人でいるほうが落ち着くようなタイプでした。中学の時に は野球部に所属しましたが体が弱くて、ラジオにかじりついて野球の実況を聞くほう が専門でした(笑)。高校時代には、名前ばかりですが新聞部に所属していまして、マスメディアには興味がありました。でも、アナウンサーになるなんてこのときは夢にも思いませんでしたね。

関学に入学し、初日の入学式でまず衝撃を受けました。というのも、ボクは訛の強い 大和弁、それに対して当時の関学は都会から出てきた人が多く、言葉のギャップに 内心「やばいな」と感じましたね。内向的な性格に加え言葉のコンプレックスがあっ て、このままじゃ友達ができないのではないかという不安さえ感じました。とにかく 大学に入ったら友達を作ることが一番の目的でしたから。それから数日後、定期の証明書をもらおうと思って学生課に行ったら、壁に各研究会の新入生募集ポスターが貼ってあって……、その中で放送研究会の文字だけがクッキリと目に飛び込んできた。日頃は優柔不断なのに、この時だけは何故か即決。翌朝には早速研究会の門を叩いていました(笑)。

【ねばりが生んだ関関戦野球の実況中継のポスト】
何もかもが初めての経験だから、欲張らずに与えられたことを黙々とこなす。それをちゃんと見逃さない友人や放送研の先輩。だからこそ4年間放送研究会での活動を貫 き通すことが出来た。

杉本氏: 放送研究会に入ったはいいが、「何をやりたいか」がわからない。放送劇や脚本、報道は向いていないと思い、最後に残ったのがアナウンサーでした。同じアナウンス部門に所属していた人達は中高と放送部に所属して将来の夢が明確な人達ばか りでした。発声練習の基本さえわからないのはボク一人。最初は練習もさせてもらえませんでしたね。ところが、研究会の部則として学内放送で原稿を読めるのは2年生以上でしたから、それに満足できない人達が次々にやめていったんです。最初にいた100人のアナウンス部門の新入生は半年後には20人にまで減っていましたね。

2年生になると放送研究会でもずいぶん実践的なことをさせてもらいました。文化祭の司 会など、当時はね、神戸国際会館や宝塚大劇場、フェスティバルホールなど大きな場所でやっていたから、すごく緊張しました。そんな経験をしながらも、中学時代に所属していた野球への夢がわいてきたんです。少年時代にラジオで実況を聞いていたし、5歳年上の従兄が実況のモノマネをよくしていたのを聞いていたので、実況のスタイルはだいたいわかっていました。実は関関戦(関西学院大学VS関西大学)の試合を見に行くと体育の出席単位がもらえたので(笑)、毎回通って実況の練習をしていました。それを先輩が見ていてくれて、学内放送でも自分の実況が流れるようになったんです。試合を見て実況しては、部室に戻って編集する。その繰り返しでした。今考えれば、関学に入ったことで、自分の道を見つけることができたんですね。

【憧れの放送局への入社、そしてアナウンサーへ】
"放送の仕事に携わりたい"という気持ちを持ち続け、周囲に流されることなく夢を実現。そして、アナウンサーへの階段を上るきっかけを作ってくれたのは、関学放送 研究会の先輩だった。

杉本氏: ボクが卒業した頃は、ほとんどのテレビ局は採用のピークを過ぎていました。 ただ一社、関西テレビ放送だけがアルバイトのポストならあると言われたんです。アルバイトなのに、何故か試験があって、あとから聞いたら20倍の倍率だったそうです。なんとか、最後まで残ったものの、最初の仕事は美術進行でした。今で言う大道具や小道具の仕事ですね。翌年には編成にあげてもらったのですが、やる仕事といったら番組表を中央郵便局に運んだり……と、バイトの域を出ませんでした。そんな時、喝を入れてくれたのが関学の放送研究会を作ったという先輩でした。「いつまで、こんなことをしているんだっ!」というお叱りと同時に、「アナウンサーの試験があるのでそれを受けてまず社員になれないと」と言われました。一般公募だったので相当な倍率でしたが、なんとか最後まで残ることができました。それからアナウンサー人生がはじまりました。

【どんな人にもチャンスは必ずやってくる〜後輩へ贈るメッセージ】
関学を通した人とのつながりが人生のキーワードになっている杉本氏。夢を叶える秘訣や今もなお現役で活躍するポリシーは?

杉本氏: 人生には"流れ"というものがあります。若いときにはとかく体制に反抗したくなるものです、確かにそれも大切です。YESマンではいけない。でも、私の場合、ある意味、その流れに身を任せてきたのです。人生には節目というかチャンスというものが、必ず誰にでもやってくるものですが、流れに逆らってばかりいてはそのチャンスを得ることができないのではないでしょうか。自分に向いていないと思うことでも一生懸命やっていると、必ず誰かが見ていてくれるものです。流れの中にやってきた節目をしっかりと見極めて、やってきたチャンスに対して迷わないことですね。

競馬の中継を担当しはじめた頃は、週刊誌の間に競馬新聞を挟んで、こそこそっとチェックしていました……、恥ずかしかったんですね。やはり実況の王様は、当時「野球」と「ボクシング」でしたからね。その後、競馬実況にマンネリ化を感じた時、作家の藤本義一さんと対談してこんなことを言われました。「何を贅沢を言っているんだ。マンネリというのは自分の型であり、パターンだよ。多くの人がその型を作りたくて四苦八苦しているのだから、もっと泥臭くマンネリを貫いたほうがいい」とその言葉のお陰で、また初心に返り競馬の道を貫くことができたんですね。

定年を目の前にした58歳のときにはバラエティー番組『ハンマープライス』の話をい ただきました。自分には向いていないと思ってずっと断っていたのですが、「競馬の実況を聞いていて、杉本さんならオークションを裁けるのでは」と言われ、競馬という殺し文句にやられましたね(笑)でも、そこで断っていたら、今のスタイルで仕事はしていなかったと思います。キレイ事を言うようですが、チャンスがやってくるときのためにも、日頃からの努力は欠かせないと、自分の人生を振り返って実感しています。

【戻れるものならもう一度関学で大学生をやりたい】
人生の一歩を踏み出すきっかけと、転機を与えてくれた関学。いつかは母校への愛校心を形にしたい。

杉本氏: 誰でもそうだと思うのですが、ボクは本当に関学へ行っていなかったら今の人生はないと思います。母校で講演などはやっていますが、実は同窓会には一度も行ったことがない。同窓会は必ず日曜日にありますよね、ボクは日曜日はいつも仕事だから……。

関学には本当に感謝をしています。同窓会にはなかなか出席できませんが、母校のために何かできることがあれば喜んで引き受けたいと思います。それから、戻れるものならもう一度関学で学生生活を送りたいですね。

独特の低音で、淡々とした口調で人生の一部を語ってくださった杉本清氏。華やかで浮き沈みが激しい放送業界において、氏の"ねばり強い姿勢"が成功の秘訣だと感じた。あなたの人生の名フレーズは何でしょうか?

【PROFILE】
杉本 清(すぎもと きよし)
1960年法学部卒業。関西テレビに入社し、競馬実況を始める。『ドリーム競馬』(関西テレビ)、『sportsうるぐす』(日本テレビ)ほか多くのテレビ、ラジオ番組を担当。秋からは『sportsうるぐす』の競馬コーナーがパワーアップを予定、乞うご期待。著書に『あなたのそして私の夢が走っています』(双葉社)『三冠に向かって視界よし』(日本文芸社)などがある。また、お馴染みの"菊の季節に桜が満開"をはじめ"メールか、これはメールか"、"栄光の電話まであと800メートル"といった杉本節による着メロ「40MELOMIX」も巷で話題沸騰中。
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