vol.34
患者の自己決定
大井 玄
最近、さる大病院の泌尿器科医から便りをもらいました。彼の70代の患者で前立腺がんが見つかった人から次のような手紙をもらったそうです。
前略
電話でさっそくバイオプシーの結果を伝えていただいて、とても感謝しています。
治療の方針については、患者の「自己決定」を尊重するというのが今の風潮ですが、小生についてはその必要はありません。この年で前立腺がんの治療は、手術から放射線から、ホルモン療法から、なにもしないに至るまで選択肢があるのは元より承知です。インターネットや本でずい分勉強させてもらいました。結論から申しますと先生の判断でやってくださることは、すべてそれが最善だと思うようになりました。治療について一々説明してもらう必要さえありません。それが「私の自己決定」といえるでしょう。 > 小生のこの結論は、ある本で読んだフランツ・インゲルフィンガー先生が自分のがんについて下した結論と同じです。彼はいうまでもなく臨床医学では世界でもっとも権威がある雑誌と言われているニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシンの編集長を長くやっていた方です。彼は食道がんの著名な専門家でしたが、自分も食道がんになりました。自分の家族も皆医師で、食道がんについては当然世界中から情報が集まっていました。
ふつうなら、そういう立場にある人はもっとも賢明な治療選択ができるはずだと思うでしょう。しかし治療成績や合併症の発生というものは、何パーセントといった確率的な情報でしか得られません。インゲルフィンガー先生は彼個人にそのまま当てはまる情報は得られないことを悟ったそうです。それで治療についてはすべてを主治医に任せ、自分は編集長としての職務に専念しました。
小生の場合、治療の選択については彼と同様な意見ですが、自己の存在認識からも同様な結論に達するのです。つまりその認識とは、自分の存在はほとんど奇跡とも言うべき無数のつながりによって現前している、というものです。そう、自分は、数え切れない因縁のつながりによりここに「現象」しています。
たとえば、さっき食べたご飯が私に届くには、稲を育てた人、脱穀した人、運んだ人、料理をした人が必要です。稲は適当な温度、水分、土壌の栄養分がないと育たない。そしてなにより太陽が必要です。昨日食べたえびはバングラデシュから来たものです。そこでは漁師がえびを捕まえるが、えびは換金性があるので自分たちは食べない。すべて日本に輸出するのだそうです。猟師はそれでも売れない魚を食べます。しかしそこの農夫は1日に100円ちょっとの収入しかないので、動物性蛋白を取れません。だから結核菌に感染したりすると抵抗力がなく、どんどん悪くなる。第二次大戦前の日本と同じです。またその時一緒に食べた美味しいナイルパーチ(大型淡水魚)はアフリカのビクトリア湖で取れたものです。映画「ダーウィンの悪夢」で紹介されたように、そこでも現地人はパーチを食べることはありません。彼らは輸出するための身をとった後の腐りかけたガラを干して食べます。漁師村にはエイズがはやっています。(カトリックの神父はその教区で毎月十人もの死者を出しているのにコンドームの使用を許さない)。両親をエイズでなくした子どもたちはストリート・チルドレンとなっています。彼らは魚肉を包装するテープを溶かしてシンナーのように吸うのです。気持ちがよくなって眠るのですが、再び眼をさまさないこともよくあります。パーチはEUと日本に毎日200トンも空輸されています。私たちの食べ物の物流の向こう側を想像できる人はほとんどいないでしょうが、小生にはそれが見えるのです。
結局奇跡的な存在として古稀になるまで生かされてきたのだから、これからのいのちが二年のところを三年、五年のところを七年にしたいといった期待は出てこないのです。 そんなことを考える暇はないのです。自分が今やるべきと思う仕事に専念すべき、という結論では、やはりインゲルフィンガーと同じになります。 結論として、先生が選択してくださる方針を無条件で小生自身の選択とします。説明も何も要りません。「そんなこと言われてもこちらが困ってしまいます」という先生の顔が目に浮かびます。すべてを先生に負わせてしまってすまなく思っています。しかしこれからの結果がどんなものであっても、小生はそれが最善であると確信しています。哲学者の池田晶子が言ったように、人は病気で死ぬのではありません。人は生まれてきたから死ぬのです。そして「今」を感謝で生きるのがもっとも良い死に方です。どうぞ宜しくお願いします。 怱々
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