vol.30
志という「成分」
大井 玄
前回の説明で、志と野心(アンビション)の違いはお判りいただけたでしょうか。野心は、「開放系」世界で社会の総体を豊かにする成分である一方、志は、「閉鎖系」世界で、困窮した同胞を助ける意味合いの成分でした。
つまり、広大で豊かな世界で文化的背景の異なる人々と競争して生きて行く場合、ひたすらエゴイスティックに野心的に生きることは、機会均等が保証されている限り、倫理的に正当化されるのです。競争に負けたヒトが飢え死ぬことはありませんから。
対照的に、狭く貧しい世界でできるかぎり大勢が生きるためには、ひたすらエゴイスティックに生きることは社会的にも許されません。たとえば、江戸時代人口が三千万のまま増えなかった数百年間、天候不順による飢饉でしょっちゅう何千、何万という人々が餓死しました。したがって、ただ才覚と野心だけで巨富を積むこと、つまり他者への配慮という形を明らかに伴わない利益追求は、非倫理的と見なされる傾向がありました。
さて、医療サービスに志が必要かという問題を考えるうえでも、以上の広いか狭いか、豊かか貧しいか、競争型であるか互助型であるか、などの社会的文脈に、目を向ける必要があります。まずその基本的条件は、医療サービスの資源が豊富か不足しているかということです。
現在日本の医療費は、先進七カ国中対GDP比でほぼ最下位。病床一〇〇床当り看護師数はアメリカ二三〇人、イギリス一二九人、ドイツ一〇二人、フランス七〇人に対し日本は四三人。人口千人当りの医師数は、世界保健機構(WHO)加盟一九二カ国中六十三位ですから、医療にかかわるもっとも重要な人的資源が、国際的に見て先進国とは呼べないほど貧しいのです。したがって乏しい医療資源を平等というに止まらず、きわめて有効に活用した時にのみ(換言すると人的資源を酷使して初めて)、保健維持システムとしての機能が高く保たれます。アメリカでは医療費が対GDP比で日本の二倍、人的資源は四倍であるのに、健康水準はずっと低いことを想起してください(たとえば乳児死亡率はキューバより高い)。
一方、日本は国民の平均寿命の長さでも、乳児死亡率の低さでも世界一ですから、医療サービスは世界でもっとも効率的に行われていると胸を張ることができるのです。
志は多分に自己犠牲をしながら他者のために働く点で、故障しやすい機械を調子よく動かすに必要な「潤滑油」の作用に似ています。日本の医療は、その働きがまだ有効です。その事実は、日本と同様医療資源が「公共財」と見なされ医療費が同じように低いイギリスと、日本の医療状況とを比較すると更に明らかになります。
イギリスの医療で理解を絶するのは、まずその能率のわるさです。同国では病気になると主治医に相談し、専門医の評価が必要と判断されて初めて専門医を受診するシステムです。二〇〇一年では専門医受診待機者は二十八万人でした。当然、直ぐ診てもらいたいと救急外来を訪れる人が増える。しかし救急外来受診者三八九三人を対象としたある調査によると、入院が必要と判断されてから病棟に移るまでの平均待ち時間は、三時間半(外来で診察を受けるまでの待ち時間は含まず)。待ち時間の最高は驚くなかれ七八時間(三日と六時間)。これは放置です! 更に手術のための入院待機患者数は、状況が少し緩和された現在でも一〇〇万人を超えます。
日本では、三時間待って三分診療などという批判はあるものの、この様な荒廃はありません。私には、それは、日本の医療従事者には医療・患者に対する志が、まだあるからだと思えます。
職能としての状況に絶望した(志をなくした)医療従事者がとる一つの行動は、安楽で、経済的に報われる処へ移ることがあります。イギリスの医師が大量に、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどへ移ることが知られています。たとえば、イギリスの新規登録医師数が一九九五年の一万一千人から二〇〇〇年に八七〇〇人まで減少したのは、医師の海外流出によるものだといいます。(アメリカの医師の四分の一は外国の医学校卒業者で、その六〇パーセントは途上国出身者)。
途上国の医師が自国の状況に愛想をつかして先進国に移住する風潮は永年ありました。たとえばインド、パキスタンの医師がアメリカ、イギリスへ、南アフリカの医師がニュージーランドへといったように。しかし先進国の医師が他の先進国に移るという現象は、どこに原因があるのでしょうか。前々回紹介したように、英国の臨床医学誌でもっとも権威があるとされるランセット誌は、イギリスには「医師の士気の破滅的崩壊」があると指摘しています。
こういう事態は日本の医師には起らないものでしょうか。
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