vol.21
検査値というわけの判らないもの
大井 玄
今までしばらく認知症の話がつづいてきましたから、ここらですこし話題を変えてみましょう。
医者というだけで私も飲み会などに出席すると健康問題について相談を受けるのです。たとえば血糖値がどうの、コレステロール値がどうのというたぐいで、たいていは、「そのくらいならアンマリ心配しなくてもいいよ」と安心させてくれる一言が聞きたいように見えます。
ところでここ二十年くらいの間に検査の数値を気にする人が大幅に増えたように思います。たとえばがんの成長を表す腫瘍マーカーなどは、かつては見のがされていたがんの存在を教えてくれますから注意を向けざるをえません。しかしこの頃の大病院の外来では、医師は患者の方を向くよりも検査値ばかりに関心を向けているという苦情も聞きますから、一部には患者もそんな医師の態度を真似ていると考えられます。
もちろん検査値は病気の進行を反映することが多いのですから、それをまったく無視するのは身のためにならないでしょう。しかし検査値を全面的に信用するのも考えものであることは、次の例からも判ります。
何年か前、ある医学部のクラス会ですでに医業から退いた男が告白しました。彼はその年の定期検診で、そろそろ前立腺がんの危険も増す年頃だと考え、前立腺がんの腫瘍マーカーを採血時にはじめて検査項目に加えたのです。もちろん泌尿器に関連する症状はまったくなく、健康そのものだと思っていたのでした。あにはからんや検査値は、正常値を二桁超えるとんでもない高値でした。相談を受けた同級生の泌尿器科教授の経験でも、そんな高値はがんが全身に転移している場合以外は見られないのでした。というわけで、彼はクラス会の出席者に、ひょっとして来年は会えないかも知れないから、と雄々しく挨拶したのです。
さてその後何が起こったのでしょうか。覚悟を決めた彼はホルモン療法を一回受けた後、インドの佛蹟ブッダガヤなどを巡礼し、まもなくそこへ移るだろう西方浄土を実地検分してきました。ところが帰国後腫瘍マーカーを調べるとまったくの正常範囲なのです。「ガの字」は姿を消していました。転移は一体どうしたのでしょう。予定されていた前立腺除去手術を受けることなく、彼は今回のクラス会でもしたたか酒を喰らっていたと聞きました。
腫瘍マーカーの数値はくり返し確認されたのですからまちがいありません。ホルモン療法はそもそも根治療法ではありません。インドで奇跡がおこったのでしょうか。検査値とはわけの判らないものです。
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