vol.17
「痴呆症」と「認知症」
大井 玄
今春から「痴呆」あるいは「痴呆症」の代わりに「認知症」という呼称が使われるようになりました。それは痴呆が「差別用語」であり、かっての「めくら」、「つんぼ」などと同様、そのような身体障害を持つ人がいやがるような差別的な意味合いがあるからと言われます。
私もこの社会の一員であり、社会的取決めに従って言語表現を行いますから、今後はできるかぎり認知症という用語を用いることに致しましょう。
同時に、今回の名称変更は、「差別」や「障害」ということをもう一度考えなおす機会を与えてくれました。
私がボストンに住んでいたとき、街の銀行の窓口に日本生れの日本人が勤めていました。彼の本名は「上杉」ですが、アメリカ人と結婚し、名はもちろん姓も「Wesley」と英国風に変えていました。理由を聞くと、そうした方が差別されにくいというのです。
そう言えば、東欧からアメリカへの移民たちがその姓をアングロサクソン風に変えることが盛んだった時期があります。同様にアフリカ系アメリカ人でかっての故郷で伝えられた姓名を保持している人はほとんどいないでしょう。
9・11以後は、ムハマドとかイスマイルとかいうアラブ風の名であるだけで嫌がらせが多いと伝えられました。
したがって、一般に「差別」をもたらす名前、名称とは、その社会で「異質」であり、社会の多数派が受け入れにくい対象に貼られたラベルと解釈することができます。換言すれば、多数派が好まぬ異質な特性を連想させるシンボルだということになります。
とすれば、差別の本当の原因は、ラベルそのものよりも「異質で厭わしい特性」であることになりませんか。
痴呆の場合、記銘力の低下、時間や場所の見当がつかなくなること、言葉が出てこなくなること、さらには妄想や夜間せん妄といった「周辺症状」があること、さらには周囲に迷惑をかける懸念など種々の要因が「異質で厭わしい特性」を形成していると思われます。
したがって、たとえば他人迷惑な周辺症状を取除くことができるとすればどうでしょうか。また記憶や時、所の見当がつかなくてもゆうゆうと暮らせる環境が用意されたらいかがでしょうか。「異質な厭わしさ」の度合は減ってきませんか。
振り返って考えると、ある人が痴呆状態を「異質で厭わしい」と感ずる度合は、その人が競争や効率を重視する意識が強ければ強いほど大きくなると思われます。逆に、競争や効率はお年寄りの生活では必要性が小さいとのんびりかまえる社会では、その度合が弱い、あるいはほとんど存在しないことが観察されます。わたしの知るかぎりでも、かっての沖縄農村では明らかに痴呆の老人たちが、まったく周辺症状がなく穏やかに暮しておられました。
以上から推察できるのは、「差別用語」といわれるようなラベルを他の「被差別的」ラベルに換えても、「異質で厭わしい」と見なされる「性質」や、そう思う「意識」が残っている限りは、差別自体はなくならないであろうことです。
特に、厭わしいという意識の底には「恐怖」があるのが普通に認められるます。その恐怖は、たとえば競争社会では、「生き残れない」という気持が指向する究極、つまり「死」に対する情動であるようです。
結局、痴呆症を認知症と改名することは、ラベルを貼りかえるだけのことです。医療で言うならば、進行がんに対し鎮痛剤でしばらく痛みを感じないようにすることでしょう。
痴呆の場合、恐怖を形成する要因、たとえば周辺症状を取除くとか、厭わしいという意識自体を変えることが「差別」をなくする根治療法になります。そしてそれは、少なくとも私には、不可能ではないように思えるのです。
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