vol.16
「痴呆」の気付かれ方(2)
大井 玄
「痴呆」の存在が気付かれにくい場合の一つには、その人が元来気のつよい、ちょっと奇矯な性格であると、そういう性格傾向が年とともに昂じたのであると誤解されることがあります。
わたしが往診していた90歳代の女性は、若い頃料亭の女将でしたが、その後運送会社を経営し、自分でトラックを運転したりする人でした。また人生の荒波に立ち向い奮闘するかたわら、5人の子供はすべて一流の私立大学にいれ、自分も日本舞踊の名取になりました。そして還暦の頃、踊りも好きなタバコもふっつりと止め、息子に家業をゆずり悠々自適の生活に入りました。
女将として保守政党の大物政治家に気にいられたり、甲斐性のない夫に代わって運送の荒くれ男たちを駆使したのですから、どんなに剛毅で指図がましい気性であったか想像できます。子どもたちはもっぱら敬して遠ざかる戦法で対抗したのです。そのため、夫がなくなってからは都内に建てた別宅で一人暮らしをしていました。
しかし女丈夫でも寄る年波には克てません。七十代後半になると尻餅をついたはずみに腰椎の圧迫骨折をおこし、腰痛と下肢のしびれが現れ、その上、左膝の関節炎となったため次第に歩くのが不自由になってきました。
さて一人暮らしは無理になり、老人ホームに入ることになりました。なにしろ、元気なとき散々いびられた長男の嫁は彼女の顔を見るとアレルギー反応を起す始末ですから、老人ホーム入りはやむを得ない措置でした。ところがホームに入居してもしばらくすると出て来てしまうのです。狷介な性格がわざわいして、周囲との折り合いがまことによろしくない。ある療養型病院に入院したときも自分で退院してしまいました。長男に「わたしゃこれから帰るからね」と電話し、さっさとタクシーを呼び彼の家に戻ってくる。長男夫婦の気持はご想像に任せます。
ということで、わたしが往診し始めた頃は、家族、いくつかの病院や老人施設、それにケア・マネージャーとの人間関係さえも冷えきっていました。
彼女はいつも毅然として椅子に坐っていました。歯切れのよい喋り方で、三十代のヘルパーに指図をしています。太い眉、鋭い目、への字に結んだ口、がっしりとした体格。しかしその体験している痛みは、膝にぐるぐる巻いた弾性ほうたいとコルセットと鎮痛剤の量からも伺えました。左膝から大腿にかけて腫れ、触っただけでも顔をゆがめるのです。独りですからベッドからトイレには這っていくのですが、左膝をかばうため右膝と右肩に負担がかかります。結局、腰痛のみか両側の膝関節と肩関節に炎症が広がり、身体をどのように動かしても激痛が生ずる状態になっていたのでした。
彼女にとって、馬車馬のように働いて育てた子どもたちの態度は憤激と怨嗟の的でした。ただひとつ、女将時代贔屓にしてくれた大物政治家たちとの交流の昔話が、いつもつかの間、気分を高揚させてくれるのでした。診察とそんな雑談の後は、かならずジュースなどのお土産を持っていけと押しつけるのです。
しかし、一見気丈で周囲をへきえきさせる舌峰が保たれているにもかかわらず、わたしは彼女の記憶力が低下し、それをつくろう作り話があるのに気付きました。知力テストでは中等度の痴呆があり、背後に根強い「不安」があるのが窺えました。周囲のだれもが見逃していた側面です。
イタイ。イタイ。最後の半年間関節痛があまりにも激しいため二度入院したのですが、痛みの緩和は二度とも不完全なまま退院させられました。三度目の入院中彼女は肺炎で亡くなりました。
「よかった。やっと苦痛のない世界に行ってくれた」そう思ったのは不謹慎でしょうか。
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