vol.12
痴呆は病気か、老いのあらわれか(2)
大井 玄
前回の話で一つの「現象」を「病気」と呼ぶことのむずかしさを感じ取られたと思います。そのむずかしさが生ずる原因を訊ねると、根本的には、私たちが置かれた世界は連続したものであり、その連続をコトバが区切る(分節する)つまり周囲から分けへだてる行為が恣意的であるからだと判ります。
連続した世界を区切ることの無理は次の有名な論理矛盾の例から窺えます。
「クレタ人は嘘つきである、とクレタ人が言った」
クレタ人の主張が真実であるか嘘であるかは、この言明ではもちろん不明です。それは第一に、「嘘つき」とはなにかを明確に決められないことに由来します。つまり連続した減少を「区切る」のは勝手な行為であって、確実な証拠はまったくありません。大体において人は時々嘘をつくものです。現実には百回のうちに百回とも嘘をつく場合から零回つくまでばらつくでしょう。(しかし後に述べる理由によって、零ということは現実にはありえません)。「嘘つき」とは百回のうち何回嘘をつく場合に貼れるラベルなのでしょうか。五十回以上なのでしょうか。もし一回でも嘘をついたら嘘つきだと言うなら、世の中の人はすべて嘘つきになってしまいますから「嘘つき」というラベル自体が意味を失います。
第二に「嘘」とは何か、という問題があります。「それは事実に反する表現だ」と言う人がおられるかも知れません。たしかに数学のテストで60点しかとらないのに100点だったと報告するなら嘘です。しかし「60点」を「優秀な成績だった」というのは嘘になるでしょうか。その場合は嘘に近くなったり遠くなったりしますが、やはり「嘘だ」と「区切る」のは恣意的なのです。
なぜならたとえば、クラス100人のうち60点以上の人が3人しかいなかった。しかもそのクラスは全国でも「秀才」が集まることで有名であるとすれば、「60点」は「優秀な成績」だと思いませんか。では20人が60点以上のときはどうでしょうか。80人が60点以上ではどうか。現実にはどこで「優秀」か「優秀でない」のか納得いくように区切ることはできなくて、その区切り方はいつも恣意によるものであらざるをえません。つまりこの場合「嘘だ」「嘘でない」もやはりそうなのでした。したがって前述しましたように、あなたが自分では百回のうち一回も嘘をついていないと思っても、コトバで意思表示をするかぎり、あなたと別の視点で見ている人にとって、「嘘」だと思われる場合がどうしても生じてしまいます。
痴呆については、痴呆という名がつけられた百年以上も前に論争が起こりました。これからも痴呆は病気か、老いの表れかは、両派の人たちによって争われていくでしょう。
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