vol.11
痴呆は病気か、老いのあらわれか
大井 玄
私も来年は古稀。そんな年頃になりますと、心の問題でも「痴呆」というコトバの響きが身にこたえるようになります。レーガン元大統領がアルツハイマー病で亡くなった記事も他人事ではないような気持で読まれるのです。
ぼけた妻の看護のために定年を待たずに退職した人の話なぞを聞きますと、もう感動で涙がでるばかりです。
さてここでもう一度考えなければならないことがありました。それは「痴呆」はほんとうに病気なのか、それとも老いる過程の一表現であるのかということです。
「そんなバカな、アルツハイマー病だって脳血管障害による痴呆だって立派な病気じゃないか」と青筋を立てる方もおられましょう。しかし前回の「心が病気を創る」という原則から言いますと、同じ現象を見ても、見方によって病気だと思うことも、病気でないと思うことも可能なのです。いやそれよりも、ある物がなんと呼ばれるかは、見る人の属している文化の約束によって決ってくると申せます。
たとえば、わたしの目の前に腕時計が一個あります。私たちはそれを「トケイ」だと思います。しかし英語圏の人なら「watch」と思います。時計なぞ用いないアマゾンの熱帯雨林で生活する文化の人なら、「なにやら光るおかしなもの」と思うでしょう。それが何であってもその人の属する文化で受け入れられる解釈であれば「正しい」のです。ちょうど「水」は人間にとっては「飲む水」であるのに、魚にとっては「住む家」であるのと同様でした。
さて「痴呆」についてはどうでしょう、人間は一生を通じ理性的存在でありたいと願う人にとっては、「合理的思考」もできなくなりヘンチクリンな行動をするようになるから「病気」だということになります。さらに、アルツハイマー病には脳神経の変性があるし、脳血管性痴呆にも脳髄の梗塞があるではないか。それは断然「病的変化」だから病気なのだ、と主張する向きもあるでしょう。しかし以上の考えの底には、人間はいわば精巧に作られた機械のようなものであって、その部品が劣化するのが「病気」である、という人間観があるように思います。だから機能の衰えた部品はクスリで回復させるか、最悪の場合には部品を取り替えて(臓器移植)という発想が生じます。
これに対して、人は年をとるとシワができ、白髪になり、筋肉も衰えてくる。それは全て老いの自然な過程である。臓器だって当然老化するから、昔ウイスキー一本空けても平気だった肝臓が直ぐ酔うようになるし、精力絶倫だった人でも枯れ木のようになる。同様に脳も萎縮したり血管がつまったりするのも自然である。一般に若い頃必要だった能力が減衰するのは当然である、と解釈することもできます。老年の過程は若年期とちがい、バラツキが大きいのが特徴ですから、一方に六十代で寝たきりの人もいれば他方に百歳でエベレストでスキーをする人が現れるのもしょうがないと言えるでしょう。
いずれの考えを採用するのが良いのか。それは各人の世界観・人生観に応じるでしょう。しかしここで注意したいのは、「人間機械」観には、生きとし生けるものが必ず到達するゴール、「死」が見えていないことです。死は突然、理不尽にやって来るのです。これに対し、「老化=自然の道行き」観では、老いの先の「死」は、次の自然な位相としてそこに静かに見えているのでした。
|