vol.16
いのちと時間
かぎりある未来の「時」をどう刻むか
日本人の平均寿命が延びて、人生80年時代がきたといわれると、だれもが、自分も長生きしたいと思う。ただこれは女子で、男子の寿命はまだ76歳である。
貝原益軒は、84歳のときに有名な「養生訓」を書いたが、彼は人間の寿命百歳を定命とした。徳富蘆花は、人生を百とすれば、自分は半ば、50歳になったと、正月に「新春」を書いている。
旧約聖書の詩篇第90篇には、「われらのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしょう」とある。この句のあと「その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです」と続く。
さて、私はここで「寿命」と「時」とを比べて考えてみたい。時間の長さの感じでは、人間は、年をとるにつれて時間が早く過ぎゆくように感じる。時間の長さは年齢に逆比例する。つまり、年寄りには時間が早く過ぎ去り、若いものではゆっくり過ぎるが、この現象を「ジャネの法則」と呼ぶ。
ところが、ジャネ(1859−1947)より古く、益軒は「養生訓」にこう書いている。「老後は、若き時より月日の早き事十倍なれば、1日を10日とし、10日を100日とし、1月を1年とし、喜楽して、あだに日を暮らすべからず」と。
なぜ、若いものには時間が長く、老いたものには短く感じられるかということを私なりに考えてみた。人間は若いほど、とくに子供では、1日の生活が充実し、1日が興味をひく内容でびっしりつまっている。私も小学校の時代には、夏休みは実に長かったことを思い出す。
ところが、定年退職したり、子供が成長して家を出て、老夫婦だけになると、1日の生活、1週の生活の内容は疎になり、充実した時間の連続でなくなる。だから、過ぎ去った時間はまことに短く感じる。
では老後は、どうすれば充実した生活の設計がなされるか、これはむずかしい宿題だが、大切なことである。
ゲーテと親交のあったシラーは。36歳のとき(1796年)に、次の詩を書き、これを「時間と空間―孔夫子の格言」と題した。孔子の書いた「論語」の中の言葉を自分の好みで解釈して、詩の題としたという説がある。
時間の歩みは三重です
ためらいがちに、未来はこちらにやってきます
矢のように早く、現在は飛び去り、
永遠に静かに、過去は立ち止まっています
シラーはさらに、
君は幸福に、そして賢く
人生の旅を終わりたいと思うなら?
ためらうものは、忠告するものと思い
それを君の道具とし給うな
飛び去るものは、友だちに選ばず
止どまるものは、敵にまわし給うな (「シラー瞑想詩集」小栗孝則訳、小石川書房)
という言葉を続けている。
この言葉はまことに示唆深い。未来の近づく時の刻みは遅いというが、その未来に私たちは何を望み、だれの示唆を受けて残り少ない生涯を生きようとするのか。
6月10日は「時の記念日」である。寿命は時の刻みで計られる。だが、人が生きる上においての将来と現在と過去の時の刻みの意味は違うことが、シラーの詩に示されている。心の中にどんな未来をもつか、それはめいめい1人ひとりの課題として考えなければならない。
聖路加国際病院理事長(関西学院旧制中学部卒)
日野原重明著「いのちの器」より
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