3月の例会は三菱一号館美術館で開催中の「ラファエル前派の軌跡」展を11人で鑑賞しました。
以下の長文は本展示会の主催者のHPからの引用です。

 第1章 ターナーとラスキン

ジョン・ラスキン(1819‐1900)が初めて J. M. W. ターナー(1775‐1851)に価値を見出したのは、1840年のこと。 自ら作品を買い求め、コレクションを形成する一方で、1843年、24歳の青年ラスキンは、この画家を擁護するために、広範な主題を扱った権威ある著作集『現代画家論(Modern Painters)』の第一巻を発表して、一躍著名になります。 当時のターナーは、存命する最も優れた英国人風景画家として広く認知される一方で、数年前から、理性による制御を取り払ったかのような荒々しい描き方を実践しており、その新しい独自の表現が強く非難されていました。 ラスキンは、この画家の作品を綿密に調査し、とりわけ版画集『研鑽の書(Liber Studiorum)』に収録された作品群と水彩画の研究に力を注ぎます。
自身も素描を日常的にたしなみ、描くという行為を通じて物質世界のあらゆる側面への洞察を深めたラスキンは、素描を手がけることで、関心の的となる事物すべての本質をより徹底的に見きわめられると考えたのです。

 第2章 ラファエル前派

1848年秋に前衛芸術家集団「ラファエル前派同盟(Pre-Raphaelite Brotherhood)」を結成した7名の画学生らのうち、その中心となったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828‐1882)、ウィリアム・ホルマン・ハント(1827‐1910)、ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829‐1896)は、英国美術史にきわめて大きな功績を残しました。 かれらは、ラファエロ以降の絵画表現を理想とする芸術家養成機関ロイヤル・アカデミーの保守性こそが、英国の画家を型通りの様式に縛りつけ、真実味のある人間感情の表現から遠ざけてきた、と主張します。 こうしてラファエロ以前に回帰する必要性を訴えて「ラファエル前派」と自ら名のったこの若手芸術家たちは、ありふれた感傷的な描き方から絵画を解放し、中世美術のように分かりやすく誠実な表現を取り戻そうとしました。 当初は悪意のある批評にさらされた彼らの試みを、ラスキンは高く評価し、1851年には日刊高級紙『タイムズ』に公開書簡を発表して、力強く擁護論を展開します。 ミレイやロセッティらとの親交が始まるのは、このあとのことです。

第3章 ラファエル前派周縁

ラファエル前派同盟が提唱した緻密な自然観察、そして主題の誠実な描写という大原則は、結成からわずか数年後の1850年代初頭には、人々に広く受け入れられていました。 やがて、年長のウィリアム・ダイスやフォード・マドックス・ブラウンらが、広い意味での「ラファエル前派主義(Pre-Raphaelitism)」を体現する代表的な存在とみなされるようになります。 これと並行して、ラスキンは著述活動を通じて、英国画壇に大きな影響を及ぼしました。 たとえば、1857年発表の素描論では、細心な注意を払って対象の細部までを描きこむことの重要性を説き、その年若い信奉者のなかから、ラファエル前派の風景画家が登場します。 他方で、彼らの周辺には、古代ギリシア・ローマ美術の再評価を推し進めたフレデリック・レイトンやジョージ・フレデリック・ワッツのような先進的な芸術家がいました。 1860年代に入るとラファエル前派主義は、欧州大陸の影響下から生まれた「芸術のための芸術」という信条を掲げる運動―絵画は物語の描写よりも形式が本来もつ純粋で感性的な価値によって評価されるべき、とする唯美主義運動―に溶け込んでゆきます。

 第4章 バーン=ジョーンズ 

オックスフォード大学で聖職を志していたエドワード・バーン=ジョーンズ(1833‐1898)は、ラファエル前派同盟の作品に感銘を受け、ラスキンの芸術論や建築論に心酔するあまり、1855年には大学を去って、芸術の道へと進みます。 ロセッティに弟子入りをし、その二年後には、師や親友ウィリアム・モリス(1834‐1896)らとともに、新築のオックスフォード大学学生会館の討論室にトマス・マロリー著『アーサー王の死』を主題とする壁画を描きました。 同じころ知り合い、精神的指導者(メンター)と慕うようになったラスキンからは、イタリアへと赴き、巨匠画家の作品から学び、素描に励むように、との助言を受けます。 1860年代のバーン=ジョーンズは、新たな様式を他に先駆けて追求する存在でした。 彼の絵画は、その大半が神話や文学的な主題にもとづく一方で、明確な物語性を欠く作品もあり、次第に、形式の完成度に重きをおくようになります。 そのいずれもが一貫して、同時代の世俗的な現実からは遠く隔たっていました。 1877年に最先端の美術を紹介するグロヴナー・ギャラリーが開かれると、バーン=ジョーンズは、19世紀末の英国で最も広く称賛される画家となります。

 第5章 ウイリアム・モリスと装飾芸術

ウィリアム・モリスとバーン=ジョーンズは、1853年にオックスフォード大学で出会いました。それ以来、生涯の友となった彼らは、多くの作品を共同で手がけます。 バーン=ジョーンズと同じように、聖職に就くことをあきらめて画家・デザイナーとなる道を選んだモリスは、1857年に、若手芸術家としてオックスフォード大学学生会館討論室の壁画制作に参加しました。 そして翌1858年には初の詩集『グウィネヴィアの弁明(The Defence of Guinevere)』を、さらに1868年から1870年にかけては長大な物語詩『地上の楽園(The Earthly Paradise)』を発表。 この物語詩の挿絵は、バーン=ジョーンズが描く約束でした。 詩人としての評価を確立する一方で、1861年には家具、ステンドグラス、陶製タイル、壁紙、捺染布地や織物など、あらゆる種類の装飾芸術を扱う「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を設立します(1875年に単独経営の「モリス商会」に改組)。 作品の下絵はすべて、仲間の芸術家らが手がけました。 また、美しいデザインの書物を世に送り出すために、 1891年に私家版印刷工房「ケルムスコット・プレス」を開設。 晩年には、社会主義者の一人として、政治改革運動に全力を注ぎました。

 写真①撮影が許可されている展示室のスナップ(ポスターに使用されたロセッイェイの作品)と②美術館前の広場でのスナップ
写真のアングルお見苦しい個所があります。