三日月会10月度例会は、学院史編纂室専任主管の池田裕子様をお迎えし、残された数々の写真の映写と共に第4代ベーツ院長についてお話しいただきました。池田様は学院史編纂室の資料から興味深い史実を次々と掘り起こしてこられました。今回の講演はベーツ院長の胸像の写真をきっかけに実現したカナダでの足跡をもとめての旅や、現地での子孫の方々とのふれあいを通じて、いままで知らなかった学院の歴史の1ページに聞き入りました。47名のみなさまのご参加ありがとうございました。
学院史編纂室には、関西学院創立(1889年)以来のさまざまな資料(書類、写真等)が保管されています。そのような資料に毎日接しておられると、資料の方から池田様に語りかけてくるように感じられることがあるそうです。 ある日、1枚の写真が目に留まりました。それは、ベーツ第4代院長の胸像の写真で、創立70周年の資料の中にありました。そのときベーツ先生は19年ぶりに来日され、写真にサインをされたのだと思われます。ベーツ先生の胸像は、大学博物館(旧図書館)に置かれています。ところが、この写真はその胸像とは異なるように思われました。池田様は、胸像に関する情報を探し始めました。その結果、ベーツ先生の胸像がカナダにもあることがわかりました。そこで、胸像を求め、カナダに旅立たれました。
ベーツ先生は第4代院長として、原田の森から上ヶ原への移転、大学開設という大事業を成し遂げられた方です。1902年にカナダのメソヂスト教会から日本に派遣され、東京、甲府での宣教活動を経て、1910年にカナダ・メソヂスト教会が関西学院の共同経営に参画すると同時に、最初のカナダ人宣教師の一人として関学に派遣されました。2年後に念願の高等学部(文科、商科、今の大学に当る)が開設され、高等学部長に就任されました。そのとき、先生は高等学部のモットーとしてマスタリーフォアサービスを提唱されました。創立時からあった神学部と普通部(現在の中高に当る)は既にそれぞれモットーを持っていたので、ベーツ先生が新設の高等学部のために新たなモットーを提唱されたのは自然なことでした。これがいまでは関学全体のモットーになっています。
原田の森から上ケ原への移転は、関西学院の大学昇格の動きに伴い、その資金捻出のために考えられたものです。このアイデアを提供したのは実業家河鰭節でした。河鰭の友人の菊池七郎教授がこの考えをカナダ人宣教師に伝えたことにより、1929年の上ケ原移転につながりました。その前年、日本とカナダは外交関係を樹立しましたが、カナダから日本に派遣されたマーラー公使は、移転間もない上ヶ原を訪れています。また、1961年にはディーフェンベーカー首相も訪れ、掘学長や小宮院長とランバス記念礼拝堂での礼拝に参列されました。1914年時点の関学の収入の7割はアメリカとカナダの教会の寄付金によるもので、それ以外に両教会は宣教師を5人ずつ送っていました。
問題の写真の胸像に関すると思われる記述が『関西学院六十年史』にありました。ベーツ院長の胸像は、関西学院における25年間の働きを記念して卒業生から贈られたものでした。大丸に2基発注され、ひとつは関西学院に、もうひとつはカナダに送られたことがわかりました。カナダに送られた胸像は、ベーツ先生が晩年通っておられたトロントのロイヤル・ヨーク・ロード教会に置かれていましたが、現在はベーツ先生の曾孫に当るスコット・ベーツさんがお持ちだそうです。池田さんは、トロント、サックビル、モントリオールを訪ね、多くの人に出会いました。マウント・アリソン大学で会ったピーター・エナルズ教授の父親は牧師で、ベーツ院長のお葬式の司式を務めた方でした。アウターブリッヂ先生の息子さんは医者となり、エナルズ先生が子ども時代を過ごした街で医院を開業されていました。また、モントリオールで訪れたベーツ先生の母校マギル大学の景色は、関学の正門から時計台を見た時の眺めとよく似ていました。ベーツ先生は上ケ原で時計台を見るたびに懐かしい母校を思い出しておられたことでしょう。
この旅のあと、スコット・ベーツさんがベーツ先生の日記を貸してくださいました。日記は1935年から1942年までのものでしたが、ベーツ先生が院長を辞職し、カナダに帰国した事情と苦悩が書かれていました。ベーツ先生は逆境に力を発揮された方です。関学の日本人理事が日本の学校のトップは日本人であるべきと考えていることがわかったときも、日本人を恨まず、辞め時を考えられておりました。10年後スコット・ベーツさんが関学に来られた時、「日記はもうあなたのものです」と笑顔で言ってくださいました。
結局、ベーツ先生の胸像は関学に3つありました。2つの小胸像の片方は秘書室で見つかりました。さらにそれより大きな胸像が宗教センターのベーツホールに置かれていました。ベーツ先生が1963年に亡くなられた時、遺産は4人のお子さんと「関学と教会」で5等分されました。関西学院に送られてきた遺産を使い、宗教センターにベーツホールが増築されました。その後、宗教センターは取り壊され、吉岡記念館となりました。ベーツホールに置かれていた胸像は、現在、関西学院会館のベーツチャペル前にあります。阪神淡路大震災で、胸像が置かれていた木製の台座が傷んでいましたが、それに気付いたボート部OBの申し出により、体育会OB会が寄付を募り、修復してくださいました。
ほかにもICANのノーベル平和賞受賞式で被爆者として演説されたサーロー節子さんは広島女学院の出身で、ご主人は関学のサーロー先生だったこと、125周年のときに東京で講演をしてくださったクラグストン前駐日カナダ大使(現・関西学院大学特任教授)のお父様は神学部教授で、上ケ原で育たれたことなども伺いました。
今回で池田様の関学についての講演は3回目です。支部会員が学んでいたころは関学学もなく、学院の歴史には殆んど触れることなく過ごしました。史実の数々を伺い、いまあらためて、母校に思いを馳せる良い機会になりました。
ありがとうございました。
【以下案内文】
三日月会10月度例会は、昨年秋に続き、第3回『関西学院の真実』と題して、池田裕子学院史編纂室専任主管に下記内容にてご講演頂きます。
「学院史編纂室には、関西学院創立(1889年)以来のさまざまな資料(書類、写真等)が保管されています。そのような資料に毎日接していると、資料の方から私に語りかけてくるように感じられることがあります。ある日、1枚の写真が目に留まりました。それは、ベーツ第4代院長の胸像の写真でした。ベーツ先生の胸像なら、現物を見たことがあります。時計台に置かれているからです。ところが、この写真はその胸像とは異なるように思われました。私は、胸像に関する情報を探し始めました。その結果、ベーツ先生の胸像がカナダにもあることがわかりました。私は、胸像を求め、カナダに旅立ちました。」
1枚の写真に導かれ、池田氏が日本とカナダで学んだことをご講演頂けると伺いました。是非とも多数の皆様のご出席を賜わりますようご案内申し上げます。
記
日 時 :2018年10月17日(水曜日)13:30~14:45【13:00開場】
場 所 :関西学院大学東京丸の内キャンパス ランバスホール
千代田区丸の内1-7-12 サピアタワー10階
サピアタワーオフィス3階受付前に「三日月会受付」(13:00~13:25)を設置
会 費 :1000円 (小ペットボトルのお茶を用意しますが、軽食の提供はございません)
講 師 :池田 裕子(いけだゆうこ)氏 / 学院史編纂室専任主管
1980年:関西学院大学商部卒業、学校法人関西学院に就職。理学部、総務部システム課、大学図書館閲覧課、国際交流課、経済学部を経て、現在:関西学院大学 学院史編纂室選任主管。関西日本ラトビア協会常務理事。趣味:ガーデニング、ラトビア語
タイトル:『関西学院の真実: 1枚の写真に導かれて -ベーツ院長とカナダ- 』
*申込締切 2018年10月11日(木) お申し込みは締切りました。
尚、同窓会東京支部の kg_tokyo_soumu@yahoo.co.jpへのメール返信では、申込み受付出来ませんので、くれぐれもお間違えの無いようにお願い申し上げます。
*お問合わせ先:東京支部 TEL 03-5224-6226
【次回予告】三日月会11月度例会は11月14日に開催する予定でございます。
以上