「関西学院の真実」というテーマで昨年10月に引き続き、学院史編纂室総合主管池田裕子様による第2回目のご講演をいただき、53名の方にお集まりいただきました。誠に有難うございました。
【ご講演の概要】
前回は関学の基盤を築いてくださったニュートン先生とベーツ先生についてたくさんのエピソードを語っていただきました。
今回は次の三つのテーマについてです。
1.「炎のランナー」河辺満甕(みつかめ)先生
2.「野球の里帰り」サミュエル・H・ウェンライト先生
3.「英語発音の革命」鈴木愿太(げんた)先生
1.「炎のランナー」
9月29日、関西学院大学中央講堂で多田修平さんのメダル獲得報告会がありました。男子400メートルリレーで世界陸上での銅メダル、ユニバーシアードで金メダルを獲得しました。多田さんは法学部三年生です。目指すは2020年東京五輪。そんなうれしい話題に続いて1924年パリ五輪の陸上で影ながら活躍した河辺満甕先生について語っていただきました。
1981年に封切られた「炎のランナー」というイギリス映画があります。ハロルド・エーブラハムスというユダヤ人とエリック・リデルというスコットランド出身の二人のランナーの物語なのですが、河辺先生はエジンバラ大学でエリックと出会い、互いに強い信仰を持つことから友情が生まれ、パリ五輪を目指すエリックの練習を手伝うようになりました。しかし100メートルの予選が日曜日にあることを知って、敬虔なキリスト教徒であるエリックは辞退しました。祖国と国王のために出場するよう説得されますが、神への信仰はそれに勝るとして拒絶します。そんな時、平日開催の400メートルに欠員が出たことを知ったエリックは出場を申し出て許可されます。河辺先生はパリに同行し、エリックの世話を続けました。
大方の予想に反し、エリックは予選を突破しました。「カワベ君、どうかぼくのために祈ってくれよ」。こう言ってエリックは決勝に臨みました。
その祈りが通じたのか、エリックは300メートルあたりから加速度がつき、すばらしい記録でゴールインしたそうです。「わたしは信仰の力、神の援助、精神の奇跡を信じます」。河辺先生は著書にこう書いています。信仰という繋がりが二人の友情を育み、奇跡を起こしたのですね。先生はのちに関西学院の文学部教授に就任し、高等部長、宗教総主事を務める一方、自宅を開放して伝道に一生を捧げました。また、1924年パリ五輪にでは石田常信さんが関学生で初めて水泳で参加しています。
2.「野球の里帰り」
関西学院大学出身の野球選手田口壮さんは1991年オリックスに入団し、2002年セントルイス・カージナルスと契約。セントルイスといえば、パルモア学院院長、関学普通学部長を務めたウェンライト先生が学んだミズーリ医学校のあるところです。ウェンライト先生は偶然雑誌で大分中学校の英語教師募集の広告を見て応募し、来日しました。
創立者ランバスと共に、原田の森のチャペル(ブランチ・メモリアル・チャペル)建築資金を集めたのもウェンライトでした。チャペルには建築資金の大部分を提供した銀行家ブランチの名が付けられましたが、資金についてのエピソードが残っています。
ウェンライト先生がミズーリ州モンティセロの教会でチャペル建設の寄付を求めた時、会衆から何の反応も得られない中、8~9歳の少年が立ち上がり50セントを差し出しました。夕刊を売って得た小遣いです。この行動に感動した会衆から多額の献金が寄せられました。少年の名はヘンリー・アイゼンブルグ。その後ヘンリーは銀行に就職しましたが、ミシシッピ川で事故に遭い、他の乗客を助けたあと、船と運命を共にした、ということです。
またウェンライト先生は、のちに再来日し、日本キリスト教興文協会、教文館の発展に尽くしました。東京銀座のキリスト教書籍の専門店「教文館」の9階には、ウェンライトの働きを記念した「ウェンライトホール」があって、絵画の展示会や各種講演会、パーティーなど多目的に使われています。
ESSの前身である「英語会」の機関誌The Maya Akashiが2002年に見つかりました。英文で書かれたその内容は1899年ころの寮生活などが生き生きと描かれています。
関西学院は、野球に関して、当時第一の位置を占め、ノッキング、ダイレクトキャッチなどは、関学より伝えられたと、神戸中学の校友会誌にも書かれています。
ウェンライト先生がセントルイスから伝えた野球が100年後に田口壮さんによって里帰りしたということでしょうか。
3.「英語発音の革命」
関西学院発展の礎となった初期宣教師たちはニュートン先生を始め、アメリカ南部出身者が多かったのです。しかし先ほど述べたように、ウェンライト先生は中西部のミズーリ州出身です。中西部の英語は発音が美しいとされています。鈴木愿太先生は1886年、ランバスの通訳として神戸に来ました。1887年からミズーリ州に留学をしたあと、1895年に関西学院普通部の教師に着任して1897年まで教鞭を取りました。ESSの前身である「英語会」が発足したのもこの頃です。南部訛りが強かったと思われる関学の英語が鈴木先生の中西部英語のおかげで改良されたのでしょう。鈴木先生の退職後、着任した西川玉之助先生もミズーリ州留学経験者でした。その着任により、関西学院に「英語発音の革命が起こった」と言われました。
以上創成期から128年を経て今なお繋がるエピソードの数々を、「炎のランナー」「野球の里帰り」「英語発音の革命」の三つにしぼってお話しいただきました。
最後にベーツ先生の言葉を紹介させていただきます。
Remember the world will ask of you not “What do you think?”but “What can you do?”
【以下案内文】
三日月会10月度例会は、昨年秋に続き、第2回『関西学院の真実』と題して、池田裕子総合主管が学院史編纂室で仕事する中で、「これは!」と思った以下内容を中心にご講演頂きます。 (以下敬称略)
◆1924年、パリ・オリンピックに関学関係者の姿がありました。
競泳の石田恒信(高等商業学部1年)は関学初のオリンピック選手でした。
陸上競技場には、400メートル決勝を祈るように見つめる卒業生河辺満甕がいました。
◆2002年、プロ野球オリックスで活躍していた田口壮がカージナルスと契約を結びました。それは、関学野球の里帰りとも言える出来事でした。カージナルスの本拠地ミズーリ州セントルイスと関西学院はどのような糸で結ばれているのでしょうか?
◆1895年、7年に及ぶアメリカ留学を終えた鈴木愿太が関西学院で教え始めました。鈴木は、ランバス一家と共に上海から来神した通訳でした。
その頃、関西学院に起こった「英語発音の革命」とは?!
学院史に関する様々の疑問について池田裕子総合主管に直接伺える良い機会です。
多数の皆様のご参加をお待ち申し上げます。
記
日 時 :2017年10月18日(水曜日)12:15~13:30
場 所 :関西学院大学東京丸の内キャンパス ランバスホール
千代田区丸の内1-7-12 サピアタワー10階
サピアタワーオフィス3階受付前に「三日月会受付」(11:30~12:10)を設置。
会 費 :1,500円 (軽食は11:30から講演前にお出しいたします。)
講 師 :池田 裕子(いけだゆうこ)氏 / 学院史編纂室総合主管
1980年:関西学院大学商部卒業、学校法人関西学院に就職。
理学部、総務部システム課、大学図書館閲覧課、国際交流課、経済学部を経て、
現在:関西学院大学 学院史編纂室総合主管、関西日本ラトビア協会常務理事
趣味:ガーデニング、ラトビア語
タイトル:『関西学院の真実:炎のランナー、野球の里帰り、英語発音の革命』
*申込締切日: 2017年10月12日(木)(お申し込みは締切りました)
尚、同窓会東京支部のkg_tokyo_soumu@yahoo.co.jpへのメール返信では、申込み受付出来ませんので、くれぐれもお間違えの無い用お願い申し上げます。
*お問合わせ先:東京支部 TEL 03-5224-6226
【次回予告】11月度例会は11月22日(水)に実施する予定です。
以上